祭りの後は・・

こんにちは

19 20日と古川祭りが行われましたよ
19日の起こし太鼓はお天気にも恵まれ最高の日よりになりました。
スタートから少し遅れていたようですが
昨年出来なかった分念入りに行われたのでしょう。
私も最後の打ち止めまでしっかり見ましたよ。
家へ帰ったのが夜中の2時20分・・・

20日は雨が少しこぼれてきたため
屋台の曳き揃えは中止となりました。


今日はお天気が良くなりましたから
お隣のまつり会館で屋台の入れ替えが行われました。
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古川の人たちは今日まで祭りに携っているんですね。
ご苦労様です。

ところで、古川の桜はやっと開きかけましたよ。
いつもより1週間ほど遅いようです。
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そんな中、まつり広場では
若い衆が祭りの後ふきをしていましたよ。

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若松様も歌われとても楽しそうでした。

古川祭りも済み、春爛漫といったところでしょうか
まだまだ飛騨の祭りはあちらこちらで続きます。
ポカポカ陽気の中春を楽しみにぜひお越しくださいませ。

春よ、来い(鯉)!

こんにちは

昨日、瀬戸川に鯉が帰ってきましたよ。
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大勢の皆さんで引越しできました。
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鯉もまだまだこの流れにはなじめない様子
流れに負けてしまい、サナに引っかかってしまう鯉もいましたよ。
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飛騨は春が遠いのか・・・
雪がまだ残っています。    槙柏(しんぱく)の雪つりは外されましたが・・
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今年はホント全国的に異常ですよね。
古川では4月に入り25センチの積雪がありましたが。
除雪機を片付けた方やタイヤの交換もされた方がいたのでは

変なお天気で困りますね。

さて、古川の桜は、蕾がかたーーーい。
こんな状態です
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古川祭りは19,20日ですが、咲いてくれるといいですね。

飛騨は梅、桃、桜 水仙などなどお花がいっぺんに咲き
春だーーーって言っている様になります。
とてもきれいで癒されますよ
暖かくなったら是非、春を満喫しにお出かけくださいませ。
お待ちしています。


やったね!

こんにちは

今日は石川県金沢から来てくれたお客様を紹介しますね。
ボーイスカウト、ガールスカウトのお友達です。

2時間くらい見学していたでしょうか

「このサイコロパズル真っ白にも出来るのよ」とお話したところ
三人くらいで挑戦・・・
30分後見事に真っ白のサイコロが出来上がりました。
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小学5,6年生から中学1,2年生でしたでしょうか。
ホント頭の回転が速い

もう一方では平組の組立て競争が始まりましたよ
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なんと10秒を切って組み立てたとか
すご〜い
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今日は古川にお泊りとか・・
古川の良い所をいっぱい見ていってくださいね。
ありがとうございましたヽ(^o^)丿

飛騨の匠パート2

こんにちは

奈良の橿原市に飛騨町や古川町があるのをご存知ですか?

これは1300年前から平安時代末期まで飛騨の人々が
奈良でずーっと仕事をしていたことと関係あるのでしょう。 
単に偶然が重なったとは思えませんよね。
実際その町へ行ってみてどんなふうに作られたのか
聞いてみたいものです。


762年 勾猪麻呂(まがりのいのまろ )石山院建立とあります。
この いのまろさんは白川村の出身とか・・・
秀工として認められ従八位上の位階を授かり、
任期後も都に留まって興福寺や恭仁京などの建設にも携わったそうです。

従八位上の位階はどんなもの?今で言う勲授褒章なのでしょうね。

今も白川から天生へぬける国道360号線がありますが、
きっと昔は峠越えをしながら技術も飛騨一円に広まっていったのでしょう。
天生には匠堂があり鞍作止利が祀られていますが、
時代は前後していてもみんな関係しているのでしょうね。

NHKで「平清盛」やっていますが
飛騨の人たちはあの時代より前から清盛さんの時代まで
入れ替わり都の都市作りに関わってきたんですね。

薬師寺・法隆寺夢殿・東大寺など幾多の神社仏閣には
飛騨の人たちの一人一人の名前はありませんが
きっと汗がしみこんでいることでしょう。

いつか奈良や京都へ行った時は
汗の染み込んだ建物をなぜてきたいと思います。

飛騨の匠パート1

こんにちは

少し前に「飛騨の匠は奈良や京都でどんな建物を建てたんですか?」
って質問の電話が来ました。
その時、鞍作止利(くらづくりのとり)のことしか頭に浮かばなくて
法隆寺の釈迦三尊像を作られましたよ・・・と答えたのですが。

その後しっかりお話ができるようにと
自分の言葉で整理してみました。

まず「飛騨の匠」と認められたのは

万葉集の中に
 かにかくも物は思はじ飛騨人の 打つ墨縄のただ一道に

とありますので万葉集ができたのが7世紀半ばですから
そのころにはもう認められていたことになりますね。

養老2年(718)に制定された養老令(賦役令)に斐陀国条が定められ・・・
とあり税金の代わりに飛騨から都へ人材を派遣するという制度があったようです。
1里(50戸)に10人で10里の人足と言うことでしたから約100人の人が
毎年 330日から350日の仕事を都でしていたということです。

1年365日ですからほとんど休み無く働いていたのでしょうね。
さぞ大変だったことでしょう。

都へ行くのも今みたいに車はありませんから集団になって
雨の日も風の日も徒歩で何日もかけて行ったことでしょう。
車でも高速を使って奈良まで5時間はかかると思いますが・・・
気の遠くなる話ですね。

飛騨に残っている人々は???
1年中一家の主が出稼ぎで家を留守にしている
出稼ぎなら帰ってくる時、報酬を持ち帰ると思われますが
お持ち帰りは無く、残された人達はどうやって過ごしていたのでしょう?
今のようにお米が精算されていたのなら
きっとお米を差し出していたでしょう。
それも出来ないから労力で払っていたことになります。
何を食べていたのでしょうね。
何が楽しみだったのでしょう。

こんなことを考えていると
私たちのご先祖様は大変な思いをして土地を守ってこられたのだと
感謝しなければという思いになりますね。

文章が長くなりますので
ここで一旦切らせていただきます。
後日続きを書きたいと思います。